天野の風景

 高野山のふもと、天野の里は四季折々の景趣に富む。
 かつて、ここを訪れた白州正子さんは「天の一廓に開けた夢の園」と感嘆した。
 平成元年(1989)、環境庁の「ふるさといきものの里」に認定され、初夏(6月初旬)の夜空にゲンジボタルの幻想的な光の舞が美しい。また、世界遺産登録の丹生都比売神社・高野参詣道町石道をはじめ西行堂・横笛の恋塚・俊寛の弟子有王丸など”平家物語”の里でもある。

大念仏一結衆 宝篋印塔

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 応永二十三年(1416)秋、大念仏衆が彼岸中日に建立したものである。以来、この上天野には大念仏が、下天野には六斎念仏が盛んになった。この石碑は鎌倉時代の貴重な様式を伝えている。

多宝塔跡

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 高さ二間三尺余りで、周縁付きの多宝塔は、、胎蔵界大日如来が祀られていた。天野社に隣合わせたお寺の中心的な宝塔であった。十世紀の中頃、高野山再興に尽くした雅真僧都が建立した。

御影堂跡

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 方形三間、三尺の周縁をめぐらせた堂に、大師尊像を安置していた。建暦元年(1211)源頼朝の妻、二位の尼(北条政子)が天野社への社殿寄進とともに、女人禁制の高野山に登れない女人と夫の菩提のために建てられたと言われている。

石造五輪卒塔婆群

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 高い石柱の四基は、大峯修験者(山伏)が大峯山入峯に際し建てた碑で、県文化財に指定されている。
 むかしは、鏡池の輪橋を渡った所に建っていたが、神仏分離により、大正年間にここに移された。
 向かって右より
 四号塔 延元元年(1336)泰助 外三十名
 二号塔 正安四年(1302)定慶 外百七十名
 一号塔 正応六年(1293)幸明 外九十名
 三号塔 文保三年(1319)覚祐 外百八十名

光明真言板碑

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 寛文二年(1662)に建立された大きな板碑は、光明真言曼荼羅碑と言う。正面の円形内には、下辺から右回りに光明真言の梵字、背面には多くの僧名が刻まれている。この頃より念仏講が形成され、板碑が建てられるようになった。

脇ノ宿石厨子

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 もともと脇ノ宿にあった石厨子は、明治の頃ここに移された。この中には,葛城修験の御本尊「役の行者」の石像が安置されている。
 葛城修験は、毎年四月七日丹生明神の御神体を山伏の笈に移して脇ノ宿にこもり、五月四日天野を出発し、加太よりニ上山まで二十八宿四十九院を巡る。六月十八日御神体が神社に還る神還祭まで修業を行う。

奥之沢明神

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 ここは、丹生明神が初めて天野の地に入った所と伝えられる。
 和銅三年(710)の丹生告門には、「丹生明神が、三谷の岩口の滝の神として現れ、大和から九度山と古沢を通り小都知の峯を越えてここに降り、さらに、紀伊の北辺を巡り、鎮守の神としてこの地に祀られました」と記されている。

貧女の一燈お照の墓

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 高野山奥の院に、千年近くも燈明が輝いている「貧女の一燈」がある。
 お照という乙女が、自分の黒髪を売って養父母の菩提のために献じた燈籠である。お照はその後、天野に庵を結び終生を過ごした。江戸時代初期、高徳な妙春尼らが建てた石碑の上に、実父母の碑が祀られている。

中之沢明神

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 天野では、丹生明神と高野明神が、奥之沢・中之沢・柳沢で祀られているので、三沢明神と言われている。
 中之沢明神あたりは、鎌倉時代より人家が多く建ち、天野社の郷供僧や宮仕が住み、この明神社も維持されたことが中之沢文書に見られる。

有王丸の墓

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 治承元年(1177)、鹿ヶ谷の山荘での平氏打倒の謀議が破れて、鬼界ヶ島に流された俊寛僧都の遺骨を、従者の有王丸が治承元年(1177)五月、高野山に納めた。その後、法師となって主の菩提を弔った。俊寛僧都の娘も、十二歳で天野の別所で尼となったことが「源平盛衰記」に記されている。

院の墓

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 鳥羽天皇の皇后の待賢門院に仕えた中納言の局の墓と伝えられている。西行の「山家集」には、中納言の局は待賢門院の没後、京都の小倉の住まいを捨て、久安三年(1147)のころ天野に移り住んだと記されている。
 この地の庵で亡くなったとき、里人が手厚く葬った墓と伝えられている。

横笛の恋塚

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 平家につかえた名門の武士、斎藤滝口時頼(滝口入道)が、雑仕の横笛との実らぬ恋に悩んで、嵯峨野の往生院に出家した。その後、高野山に登り多聞坊浄阿と称し、仏門修業の毎日を送った。
 横笛も奈良の法華寺で仏門に入り、治承三年(1179)時頼を慕い、天野での再会を待っていたが、哀れ十九の春に亡くなった。

そるまでは 恨みしかども 梓弓
 まことの道に 入るぞうれしき 浄阿

そるとても 何か恨みん 梓弓
 引きとどむべき 心ならねば 横笛

西行堂

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 西行(1118~90)俗名 佐藤義清は、田中莊領主の出身(那賀郡打田町)、鳥羽上皇の北面の武士。23歳で出家して法号円位、諸国を行脚して花と月と旅を主題に心の思いを率直に表現した平安後期の天才歌人。
遁世修行を行うなかで多数の秀歌を残した。山家集は遁世者の感懐をみごとに歌いあげている。
「新古今和歌集」の代表的な歌人の一人でもある。出家後も、昔の同僚で時の権力者、平清盛との人脈を活用、熱心な交渉者として、高野山のために働いた。
 西行の妻と娘が住まいとした庵を、天野の里人は西行堂として昔から守り続けてきた。
 妻は、西行出家の二年後この地を訪ねて庵を建てました。娘も十五歳の時、出家して母とともに生涯を過ごし、小さな六地蔵に守られて静かに眠っている。

なく虫の 草やつれて ゆく秋か
 天野に残る 露にやどりぞ 似雲

西行妻娘の墓

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 西行が出家してまもなく、妻も仏門に入り、康治元年(1142)ここに庵を結び読経三昧の日々を送った。十五歳になったばかりの娘も、女人禁制の高野山ふもとの天野と聞いただけの一人旅、京都よりやっとたどり着き、やがて出家して母とともに安らかな一生を過ごした。娘は正治元年(1199)の秋彼岸に亡くなった。

 ほととぎす 古きあはれの 塚二つ 青々

亀田大隈守顕彰碑

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 亀田大隈守は、戦国時代の武将で賤ヶ岳合戦、関ヶ原の戦い、大坂城冬の陣と夏の陣に、数々の武功をたてた。浅野家が紀州三十七万石の領主となった時、七千石の家老として仕えた。
 その後、浅野家が広島に転封されたので、東条城一万石の城主となった。上田宗古と対立し、浪人となり堺に隠遁した後、寛永三年天野の開発に尽くし、寛永十年八月十三日亡くなった。この碑は、その子孫により建てられた顕彰碑。

柳沢明神

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 むかし、この地に大きな柳があり柳沢と呼ばれていた。
 この神社の古文書には、狩場明神がこの前方の一の滝不動あたりから空海を案内して、ここで丹生明神に会わせたと記されている。
 ここは、空海と丹生明神が初めての出会いの由緒ある所と伝えられている故に、柳沢明神は高野山より竪義の神として大切にされている。

子の日権現生誕地

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 約一千年前、長者屋敷に住んでいた「阿字の長者」という夫人が、尊い仏様の子を宿したという霊験があった。
 大切な子であるので、日当たりの良いこの地に移り、保養したおかげで、子の年、子の月、子の日、子の刻に男児を授かったと伝えられている。
 七歳のとき延命寺で得度し、関東へ「子の信仰」を広めました。子の聖、天野の聖と崇められた足跡を残し、やがて埼玉県飯能市の近く秩父に天龍寺を建立し、子の権現社として祀られている。
 天野の碑は天龍寺より建立された。

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最終更新日:2021222