歴史の里
蔵王権現神社
かつらぎ町と大阪府河内長野市との境界、蔵王峠に鎮座している。
7世紀末、役小角が修験道の行場を開いたころといわれている。
主祭神は蔵王権現。昭和61年に村人の手によって境内の拡張整備、社務所の改築などが行われ、よそおいを一新した。4月18日には例大祭が行われる。
宝来山神社
社伝によると、和気清麻呂が八幡宮を勧請したことが始まり。猿田彦大神をはじめ四神が祭神として祭られ、一間社春日造の色鮮やかな四社殿は重要文化財に、脇社二殿も県の文化財に指定されている。また、所蔵する「紀伊国笠田庄絵図」も重要文化財である。
丹生酒殿神社と鎌八幡宮
神社名は、崇神天皇(または応神天皇)の時代、丹生都比売神がこの地に降臨したとき、地主神の竈門明神が酒を造り、初めて神前に供えたことに由来するといわれる。社殿の裏にある鎌八幡宮は明治44年、兄井から移され、イチイガシの大木をご神木とし、祈願成就のため鎌を打ち込んだことからこの名がある。祈願成就のときは鎌が幹に食い込んでいくが、不成就のときは脱け落ちると伝承されている。
文化元年(1804)世界で初めて乳がんの手術に成功した華岡青洲の石燈籠が境内にある。天保5年(1834)74歳の時に寄進したもので、長年の神仏のご加護に感謝の意を表したのであろう。
大宮神社
三尾明神ともいわれ、天正十三年(1585)、織田信長の高野攻めで焼失した。元和元年(1615)の元日、白髪の老人が現われて、宮司代に社殿再建を告げて立ち去った。その夜、牛滝山明王院の円海という僧も同じ夢をみたという縁で、二人は協力して神社を再興したと伝えられている。以来、現在に至るまで産土神として厚く崇敬されている。
北辰妙見神社
北辰妙見神社の祭神は、妙見尊、素盞鳴尊、誉田別命、三箇男命、市杵嶋姫命、蛭子命である。
国土を守護し、開運厄除けの神として、遠く阪神地方からも参詣者が多い。
本殿はもと権現造であったが、現在の建物は千木鰹木造で極採色を施している。
全国でもめずらしく、わずか三社といわれる「北向きの妙見さん」として有名である。
定福寺
通称「萩の八ツ割堂」。
萩の大木を八ツ割りにして、本堂の柱に用いたことからこの名がある。その特異な建造物は飛騨の匠の作と伝えられる。本尊の十一面観音は行基の作で、西国三十三所観音霊場の開山にあたり熱弁のあまり、自分自身の寺を札所に定めるのをうっかり忘れたことから、「帳落としの観音」といわれる。
堀越癪観音
堀越癪観音は癪の病にあらたかな霊験があるとして、遠く京阪神からの参詣者が絶えない。
本尊は十一面観世音菩薩。当寺は、向井家が先祖代々祭っている世襲寺であり、境内には、樹齢200年以上経過したと推定される県指定の天然記念物の山茶花(さざんか)がある。
また、当寺の上に観音堂があり、役小角の像を祭っている。「紀伊続風土記」には、文治年間に建立され、慶長年間に修復されたとあり、元禄14年(1701)の大日経箱が残っている。
蟻通神社
蟻通神社の名称は、七曲がりの穴をもつ玉に糸を通せという難題を、蟻をつかって解決したという伝説に由来している。
蟻通神社の正面両脇に阿吽の「狛犬」が並んでいる。有名なのは、玉垣のなかの社殿の左にある、大きな自然石の狛犬である。高さ1メートル50センチ、幅70センチ、前足と後足の間70センチばかりの空間をくぐると、はしか、百日ぜきなどにかからないとの古くからの信仰がある。これは七曲りの玉を蟻が通り抜けたゆかりによるものである。
萩原の駅跡
南海道は、古代の官道として、奈良の都から、加太・淡路島を通って四国に至る重要な道路であった。大宝二年(702)加太の駅が設けられたころ、「萩原の駅」もつくられ、弘仁二年(811)都が京都に遷されるまでのおよそ100年の間の宿駅として賑わったと伝えられる。
養老令によると三十里(今の約五里)ごとに駅を置いた。駅長と駅子(駅員)がおり駅馬・伝馬が用意されていた。
1300年の時空を越えて平成7年(1995)、駅跡南方の国道24号のかたわらに「道の駅」が建設された不思議な縁を町民は喜んでいる。
小田井「龍の渡井」
龍の渡井は、小田井用水路を開削した大畑才蔵(1642~1720)の有名は旧跡として知られている。橋本市高野口町から岩出市根来川まで総延長32.5キロの小田井用水路のうち、穴伏川にかかる通水橋は「龍の渡井」と呼ばれている。
江戸時代に木造の樋(渡井)で用水を対岸に渡す土木工事は力学的に極めて高度な設計力を要した。
現在の煉瓦造りの渡井は大正8年(1919)に建設されてから80年余り、地震・水害などの自然災害に厳然と耐えて、近代遺産の威容を内外に示している。
平成29年、世界灌漑施設遺産へ登録された。
一字一石法華塔
町内15箇所にある一字一石塔のひとつ。
大薮の旧国道筋にあり、かつては人々の往来安全や除災厄除として、庶民の願いが込められていた。天保九年(1838)建立されたもので、緑泥片岩造りの石塔下には、法華経の経文を一字ずつ墨書した川原石が埋納されているという。
平和祈念像
万国戦没者の精霊を供養し、世界平和を祈念して昭和34年に着工、59年に完成した。和歌山県出身の彫刻家、保田龍門の設計によるもので、胎内には世界各国の聖地から贈られた由緒ある小石を納める。高さ18mで奈良の大仏よりも高い。毎年、8月24日は、万国戦争犠牲者慰霊祭と合わせて平和祭が行われている。
検校雅真五輪塔
石山寺で修行した雅真僧都は高野山龍光院の住職を務めた。高野山検校初代の名僧で寺院の復興に尽力した。東渋田は龍光院ゆかりの地であったことからここに五輪塔が建てられ、「雅真僧都 長保元年三月三十一日寂」と刻銘されている。
平成15年3月31日、町文化財に指定される。
大師の井戸
この井戸は、かつらぎ町平の国道480号から少し下りたところにある。和泉の槇尾山施福寺で仏法を広めていた弘法大師が、ある日村人に飲み水を求めたとき、くらしの水にも困っていることを知り、錫杖を岩に三度突き立てたところ、清水が涌き出たという伝説がある。
かつらぎ町内には、弘法伝説が各地に口承されている。
高野参詣道 三谷坂
この辺りは六箇庄といわれて、京都の仁和寺を本家とし、丹生都比売神社(天野大社)を領家とする庄園であった。そのため、平安時代、仁和寺に入寺した法親王は、高野山参籠の最短の道として三谷坂を登った。沿道には、風に吹き飛ばされた弘法大師の笠がひっかかったという「笠石」や頰切地蔵などの伝説がある。
写真の「天野大社参道」の道標は、昭和18年(1943)に建てられたもので、そのころの時勢を知ることができる。
大和街道
かつて和歌山市京橋を起点とする大和街道は伊勢街道ともいわれ、江戸時代には参勤交代の街道として、また人々の伊勢参詣道として利用された。
かつらぎ町では、西の入り口にあたる背ノ山の麓から笠田東の大樹「十五社の樟」の下を通り、町役場の付近で国道24号と交差し妙寺の町並みを経て東の嵯峨谷川まで約10キロの道程である。和歌山城下から眺めて紀の川の上流にあたることから「川上」と呼ばれたかつらぎ町には、ここかしこになつかしい街道のたたずまいが偲ばれる。
北寺観音
北寺観音堂の縁起は定かでないが、高野山の寺領として栄えた時代、集落すべてに伽藍形式のお堂があった中のひとつであると伝えられている。
本尊は観世音菩薩で、有田川町板尾の岩坂観音とは兄弟であるともいわれ、昭和28年の大水害で北寺集落が山津波で全壊した際に、このお堂だけが残った。
遍照寺
開基は弘法大師で、弘仁6年(815年)大師42歳の時、道(僧侶)俗(在家)教化のため当地に立ち寄り、椎の木の下で護摩を焚き、一字の庵を設け厄除けのために地蔵と不動明王を彫り此処に安置したので、厄除け大師と伝えられている。
昔飢饉で民が餓死せんとした時、弘法大師が此の山(遍照寺山)に生えている菜(不蒔菜)を食べよと教え生き延びたことから、山号は不蒔菜山遍照寺という。
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かつらぎ町役場 産業観光課 商工観光係
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